当たり前なんてないということに気づけば人生は豊かになる

当たり前にあるものに感謝することは非常に難しいです。

しかし、当たり前なんてものは一つもありません。

人生を豊かにするためには、当たり前なんてないということに気づくことが大切です。

本記事では、当たり前なんてものはないということを仏教の視点からお坊さんが解説します。

当たり前なんてないということに気付き、当たり前だと思っているものに感謝することができたとき、見える世界は180度変わってくるはずです。

目次

当たり前なんてものはない

極端な話をすれば、明日も太陽が100%昇ると言えるでしょうか?

明日も僕たちが住んでいる地球は必ずあると言えるでしょうか?

実は明日も必ず地球があり太陽が昇るという保証なんてどこにもありません。

突然隕石が降ってくるかもしれませんし何が起こるのか確実に予想することは不可能です。さらに言えば、自分が亡くなってしまえば太陽を見ることはできませんね。

実は今までそうだったから、明日もきっとあるだろうというのは不確定な漠然としたものなのです。要は未来がわからないのと一緒のことです。

劇的な変化が無くても、絶えず世の中は移り変わっています。

太陽のことに話を戻せば、太陽は少しずつ膨張していっていることが、現在の科学では解明されています。

はるか未来の話ですが76億年後には、膨張した太陽の熱によって地球は焼かれてしまうことになります。そしていずれ太陽も寿命を迎えます。

そうなれば、地球にはもはや人間もその他の生命すらも住めなくなってしまう星となることが分かっているのです。

このことから分かるように、ずっと変わらずにあると思っている地球や太陽でさえ、いずれ終わりを迎える時が来てしまうのです。

諸行無常

仏教では、すべてのものが移り変わっていくことことを「諸行無常」という言葉で表現しています。

  • 諸行・・・すべての事柄や存在のこと
  • 無常・・・常に存在するものは無いということ

つまり、すべてのものが永遠にあるということはなく、常に変化していっているということを表しています。

僕たちも一緒で、僕たちの体を構成している細胞は絶えず入れ替わっていっています。

少しずつ変化していっているから気づかないというだけで、「昨日の僕」と「今日の僕」は完全なイコールではありません。

言われてみれば当然の話なんですが、あまり意識することはありませんよね。

朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身

絶えず変わっていっているということは、急になくなってしまうということもあるわけです。

例えば人が亡くなるというのもそうです。

僕は20代の時に交通事故で友人を亡くしています。

それまでその友人と遊びにいったり、たわいもない話をしたりと、僕の日常にその友人がいるのは当たり前でした。

明日も明後日も1年後もその友人と遊んでいるんだろうなと思っていて、そのことを全く疑っていませんでした。

でもその日は突然にやってきました。当たり前というものが崩れてしまった瞬間です。

浄土真宗の昔のお坊さんに蓮如上人という方がいます。蓮如上人が書いたお手紙の一つに「白骨の御文(おふみ)」という有名なものがあるのでご紹介します。

されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

白骨の御文

要約すると僕たち人間は、朝はいつも通り血色の良い肌をしていたけれど夕方には火葬されて白骨となってしまう身を生きている。

無常の風が吹いてしまえば、たちまちに亡くなってしまう身であり、親族や身内が嘆き悲しんでも元に戻ることは無い。

無常さをよく表しているお手紙ですね。

必ず終わりを迎える時がくる

普段、日常生活をしているときは「自分が亡くなる」ということを意識しませんし、意識したいとも思いません。

だけど、誰もが終わりを迎える時がくるというのは変えようがない事実です。

しかもそれは突然にやってくるということがほとんどです。

たとえどれだけ仲が良かったとしても、好きでいようが、愛していようがいう別れの時は来てしまいます。

そんな悲しいこと言うなよって思うかもしれませんが、「必ず終わりを迎える時がくる」「別れがくる」ということを受け止めるということは、1日1日を大切に生きる大きな原動力に実はなるんです。

当たり前なんてないと気づいた時、本当に大切にすることができる

人間は当たり前と思っていることに対して興味関心を失ってしまう傾向にあります。

例えばこんな経験はありませんか?

  • 恋人ができたときはすごく嬉しくてずっと大切にしていきたいと思ったはずなのに、関係に慣れてくると存外に扱ってしまう。
  • 前からずっと欲しかった物をようやく買うことができたのに、いつの間にかどうでもよくなっていた

当たり前と思っているうちは、その大切さに気づきにくいものです。

大病を患って初めて、道端に咲いた花がこんなにも綺麗だったと気付いたという話は聞いたことがあるかもしれません。

でも逆に言えば、身の回りのものがすべて当たり前ではないということに気づきさえすれば、すべてのことを大切にすることができるということではないでしょうか。

当たり前と慣れ

理論上は、すべてが当たり前ではないということに気づきさえすれば、どんなことでも大切に思うことができます。

なぜなら、すべてが変化し続けているからです。

一瞬一瞬で移ろい変わっていくということは、同じ景色を見ることは事実上不可能であり、この今という時は、かけがいのないものになるはずです。

しかし、人間は当たり前でないということに気づいてもいつの間にか忘れてしまっています。

同じことが続いてしまうとどうしても慣れてしまうんです。

慣れというのは、人間に共通する性質と言ってよいかもしれません。

だから1回気づいただけでは、その気持ちを持続させるのは難しいでしょう。
何かの出来事をきっかけとして「当たり前なんてものはない」ということ思い出す必要があります。

しかもインパクトのある出来事でなければなりません。

仏事は当たり前なんてものはないということを教えてくれる

「当たり前なんてものはない」ということを思い出させてくれる一つのきっかけになるのが法事等の仏事だと僕は思っています。

浄土真宗では、亡くなっていった人を仏様と呼んでいます。

なぜ仏様というかというと「当たり前なんてものはない」ということを身をもって教えてくれているからです。

「おまえたちも自分のようにいつか亡くなる身を生きているんだぞ」「だから1日1日を大切に生きなさい」と法事の場を通して教えてくれているわけです。

御先祖様が定期的に法事を行ってきたのはこういう大切な気づきを与えてくれるからではないでしょうか。

まとめ

繰り返しになりますが、人生をに豊かにするためには「当たり前なんてものはない」ということにまずは気づくことが大切です。

しかし「当たり前なんてものはない」ということを気づかせてくれる出来事は、日常ではあまりありません。

しかも、一回気づいても人間はいつの間にか忘れてしまいます。

それを思い出させてくれるのが仏事でないとダメなのかというとそういうわけではありませんが、一つのきっかけにはなると僕は思っています。

いずれにしても「当たり前なんてものはない」という気づきはとても大切です。

もしあなたがそのことに少しでも気づくことができたのなら、その気づきを忘れないよう大切にして欲しいと思います。

※本記事の内容について、できる限り正確な情報を提供するように努めておりますが、正確性を保証するものではありません。特に宗派や地域慣習によって大きく左右される事柄もございますし、個々人の宗教観によっても意見が違う場合も多々ございます。本記事の内容を参考にされる場合はあらかじめご注意ください。

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