仏教の宗派の違いとは?なぜたくさんの宗派があるのかお坊さんが解説します

日本には数多くの宗教団体があります。

仏教だけに限っても、数多くの宗派があります。

同じ仏教なのになんであんなに宗派があるのか分からないという方も多いと思います。

そこで、本記事では、なぜあんなにたくさんの宗派があるのか?またその違いとはなんなのか?ということを現役のお坊さんが解説します。

この記事で解決する疑問
  • 仏教の宗派はなぜあんなにもたくさんあるの?
  • 宗派の違いって一体何が違うの?
  • 宗派がいくつもあってよく分からない
目次

なぜ宗派がたくさんあるのか?

まず仏教にはいろんな宗派がありますが、それぞれ目指すゴールは一緒です。

じゃあなんで宗派が分かれているのかというと、ゴールという真理に至る方法がそれぞれ違っているからです。

山頂というゴールは一緒でも、行く方法は様々ですよね?要はそれと同じことです。

真面目な人は、定められた山道をそのまま進んでいきますし、ちょっとひねくれた人なら山道から外れた道無き道を登っていくこともできます。

もし、足腰が弱いならヘリコプターを使って山頂へひとっ飛びしてはいけないというルールはありません。

そのように、その人の境遇に合った教え、理解力によって教えの内容をブッダは柔軟に変えていきました。

ブッダの教えを聞く人の境遇や理解力は様々で、その人に合った教えが必要だったのです。

説かれた内容の違いが、そのまま宗派の違いになります。

対機説法

仏教の開祖であるブッダは数多くのことを弟子たちに説きましたが、全員に同じことを説いたわけではありません。

ブッダは対機説法という手法で教えを伝えていきました。

「対機」の「機」というのは「人」を表しています。

つまり、教えを説く相手が置かれている境遇や素養を見て教えの内容を変えていったということです。

すべての人が真理を説いたからといってすぐに理解できるわけがありませんよね。

だからその人に合わせて説く必要があったのです。

対機説法は、しばしば薬に例えられます。

例えば、風邪を引いて熱があるとしましょう。

熱がひどくて辛いのに、鼻水を抑える薬だけ処方されても意味がないわけです。

その人の症状に合わせた薬を処方する必要が出てきます。

それと同じように、苦しんでいる内容やその人が置かれている環境によって心に響く教えが違ってくるのは当たり前です。

そのようにブッダも相手の状況に合わせて教えを説いていきました。

しかし、相手の状況に合わせて説かれた教えの「言葉」だけを見ると矛盾しているように見えることがあります。

例えば、これ以上がんばることが出来ないという人に対しては「がんばったね。もう十分だからこれ以上がんばる必要がないんだよ」と言いますよね。

逆にもっともっと頑張れる人に対しては激励の意味を込めて「がんばって!」と声をかけるのが普通です。

その人にとってもそれが励みになります。

しかし、言葉だけを取り上げるとどうでしょう?

「頑張れ」と「頑張らなくても良い」と矛盾したことを言ってしまっていることになってしまいます。

このように、言葉をかける相手の状況を考えずに言葉だけを取り上げてしまうと矛盾したことになってしまうのです。

仏教の教えにも同じようなことが言えて、教えの内容を見てみると一方ではこう言っているけれど、もう一方では真逆のことを言っているということがあります。

この矛盾について、仏教の長い歴史の中でたびたび論争が起きたりしましたが問題はそこではありませんよね。

「頑張れ」と「頑張らなくても良い」という矛盾が重要なのではなくて、その人の状況に合わせて「どのような言葉をかけるか」が重要なのです。

でも仏教の歴史を見てみると実際にはそうはなりませんでした。

次第説法

もう一つ、いろいろな教えが説かれた理由があります。

それはブッダが次第説法を行ったからです。

次第説法とは、誰が聞いても理解することができるやさしい教えから説き始め、徐々に本質に迫る教えを説いていく方法です。

例えば、小学校で習う基本的な計算しかできない人に、いきなり大学で用いる数式等を説明したところで理解できるはずがありませんよね。

もちろん天才は別ですが。

それと同じようにいきなり仏教の神髄である「四聖諦」を説いたところで、理解できるはずもありませんし、必要性が分からないので聞こうともしないことになります。

「これは重力を理解するために必要な数式だ。重力は生活に密接に関係しているのだからしっかり理解するように」と言われても理解できないし実感も湧きませんよね。

そのためブッダは最初に、「生き物を殺してはいけない」「盗みをはたらいてはいけない」という、誰もが「そうだな」と思うことから説き始めたと言われています。

そのように徐々に教えを聞く土台を整えていきました。

しかし、その土台を整えるために、時には真逆のことを言う必要性が出てきます。

例えば、仏教の空の思想を例に挙げてみましょう。

空の思想では、物の本質は「あるのでもなく、ないのでもない」と最終的には説かれます。

しかし、これを何の仏教の素養も無い人が聞いてもちんぷんかんぷんですよね。

だから、まずは物の本質はあると信じている人には「物の本質はあるんだよ」と説きます。物は目に見えているからわかりやすいですよね。

次にそのことを十分に信じている人に「物の本質はあるって言ったけど、実はないんだよ」と説きます。

そして最終的には「物の本質はあるのでもなく、ないのでもない」と説かれることになります。

いろいろすっ飛ばしているのでこれだけじゃわからないかもしれませんが、このように次第説法では時折、矛盾した教えが説かれます。

このように最終的な真理を理解してもらうために必要な行程ですが、これが元で仏教の派閥が分かれていくことにもなっています。

「すべてが実在しているのだ」と説く「説一切有部」という派閥や、「すべては存在しない」と説く虚無論者のように。

結局どの教え・宗派が正しいのか?

結論から言うと、どの教えも正しくもあり正しくもありません。

なぜなら、聞く人によって響いてくる教えというのは違うからです。

ブッダが亡くなった後、ブッダの弟子たちが集まって教えを確かめ合う「結集」という集まりが開かれます。

その集まりで確かめられた教えがお経としてまとめられ、現代まで伝えられてきています。

だからお経は、「如是我聞」=「我はこのように聞いた」という言葉から始まっているのが特徴でもあります。

そして、結集の場では「私はこう聞いた」「俺はこう聞いた」と、それぞれブッダのお弟子さんたちが自分に説かれた教えを説明していきました。

しかし、ブッダは上述の通り、その人に合った教えというものを説いています。その人には正しい教えでも、他の人には正しくない教えかもしれません。

するとどうなるでしょうか?

Aさんは「私はこう聞いた」と説明します。

Bさんは「いやいや俺はこう聞いたんだけど?」と反論します。

一方で、Cさんは「私もAさんと同じことを聞いた」と説明します。

Dさんも、「Aさんが聞いた教えに共感する」と言います。

そうするとAさんの教えが正しいのか?と思われるかもしれません。しかし、Bさんが聞いた教えも正しいのです。

ただAさんとCさんの境遇が似ていただけの話なのです。

言葉だけを取り上げてしまうと、どうしてもそのような混乱が起きてしまうものなのですね。

そして、それぞれが信じる教えを中心とした集まりが次第に出来上がっていきました。

これが、宗派がたくさんある理由にもなっています。

「この教えが正しい」と思う人が多ければ多いほど、その教えを信じる人の集まりは大きくなっていきます。

それだけ多くの人の心に響いたということでもありますが、その教えが万人にとって正しいかというと別です。

真理への到達が山頂へ登り切ることだとする、整備された大きな道ではなく、別に脇道から登ってもいいわけです。

少数が信じている教えが間違っているのかというとそんなことはありませんので、そこは気を付けないといけませんね。

まとめ

真理は一つですが、そこに至る方法は様々です。

悟りに至る道は4万8000もの数があると言われています。

自分にとっては、ある方法が正解でも、他の人にとっては違っているかもしれません。

真理に至る方法=宗派がたくさんあるのは逆に喜ばしいことかもしれませんね。

自分にあった教えを選び取ることができるのですから。

※本記事の内容について、できる限り正確な情報を提供するように努めておりますが、正確性を保証するものではありません。特に宗派や地域慣習によって大きく左右される事柄もございますし、個々人の宗教観によっても意見が違う場合も多々ございます。本記事の内容を参考にされる場合はあらかじめご注意ください。

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